小堀球美子のひとりごと
泣血氈について
会津の人が、戊辰戦争、会津戦争で降伏したときの、松平容保が式典に臨んだ調印式で敷かれた緋毛氈を「泣血氈」と呼んだそうです。
家臣がそれを細かく刻んで、藩士が悔しさを忘れないためにと長く持っていたそうです。
戊辰戦争から120年経って、萩市の市長が「もう120年経ちましたから」と会津に姉妹都市の提案をしたとき、会津市の市長は「まだ120年しか経っていません」と断ったそうです。
人の思いは、相当事者でもそれぞれの立場で違うということ。
「そんなこと根に持っているとは寛容ではない」「しつこいやつだ」と言うは易いですが、一生の恨みというのは、ありうるのですね。
2018-07-25|タグ: